『壁画洞窟の音』書評

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壁画洞窟の音 旧石器時代・音楽の源流をゆく  [著者]土取 利行   青土社

■遺物、空間から響きを再現      [評者]港 千尋 (多摩美大教授)

 先史時代の洞窟(どうくつ)にバイソンや馬の壁画が残されていることは、美術の始まりとして教科書にも記されている。三万年も前に溯(さかのぼ)る昔のことだから、どのような目的で描いたのかは分からないが、現代人がその絵を見て感動するということは、少なくとも似たような心の持ち主が作者ではないかと想像させる。もしそうならば、彼らは描くだけでなく、歌い、踊り、楽器を鳴らしたのではないだろうか。本書は、美術に比べて、これまでほとんど知られてこなかった、音楽の先史時代についての本格的な考察である。
 これには音響考古学という面白い分野がある。鍾乳洞はそれ自体、自然がつくった楽器のようなものだが、内部の反響や残響を調べてゆくと、音の響きが格段によい場所に壁画が描かれていることが多い。ここから、絵と音の間には何らかの関係があるのではないか、という推測が出てくる。また旧石器時代の遺物には、骨で作られた笛や振り回して音を出す唸り木(ブル・ローラー)と呼ばれる骨製の板も見つかっている。音を出す以外の目的が考えられないこれらのモノが、楽器として演奏されたことは想像に難くない。
 絵の具のような物質として残らないところに、音楽の起源を探究する難しさがあるが、本書の強みは言うまでもなく、著者が世界的な音楽家だというところにある。さまざまな民族音楽とのコラボレーションを通じて、空間も時間も超えたところにある、音楽的感動の普遍性に通じているからこそ、実験的なアプローチも説得力をもつ。
 わたし自身、本書で詳細に報告されている洞窟内部の演奏に立ち会う幸運を得た。林立する無数の鍾乳石に彼の指が触れただけで、闇全体が美しい和声を奏でるオーケストラに変貌(へんぼう)したときの感動は一生忘れられない。魔法のようだった。その類(たぐい)まれな感性と科学的思考が結合し、本書はひろく読者の好奇心を誘うだろう。

2008年9月21日  東京新聞 中日新聞 書評欄

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『壁画洞窟の音』 

 評者  小柳 学

前著『縄文の音』で、縄文時代の音を追求し再現した打楽器奏者が、今度は、旧石器時代の音を求めて世界の洞窟遺跡を訪ねた。
 楽弓を演奏する半人半獣の絵が描かれたフランスのレ・トロア・フレール洞窟。絵の下で、著者は笛を吹く。演奏が終わった後の同行者たちの表情が印象的だ。「皆の目が何かに憑かれたときのように大きく見開いていた」。その笛は、鼻笛。半人半獣がもっているのは、楽弓ではなく鼻笛ではないかという説があり、実際に演奏してみたのだ。同じフランスのクーニャック洞窟では、鍾乳石や石旬を叩いて演奏する。「どこか広い海にゆっくりと浮かんでいるような不思議な感覚に陥ってしまう」という。洞窟は音楽ホールであったことを著者とともに実感する。
 最新の考古学の学説を参考にしながら進む、音をめぐる旅。「音楽誕生」の瞬間に居合わせる気持ちになる。

週刊朝日2008年11月28日号 

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壁画洞窟の音 旧石器時代・音楽の源流をゆく  [著者]土取 利行   青土社

■音楽誕生の謎を解く  【評者】田中純(思想史家)

 音楽家・パーカッショニストである著者は、縄文土器から復元された太鼓「縄文鼓」の演奏で知られ、『縄文の音』という著書もある。本書では、時代をさらにさかのぼり、旧石器時代における音楽誕生の謎が解き明かされてゆく。
 おもな舞台になるのはヨーロッパの壁画洞窟(どうくつ)である。ラスコーやアルタミラといった洞窟で有名な動物壁画は後期旧石器時代に描かれた。著者は南仏のレ・トロア・フレール洞窟に入る幸運に恵まれ、楽器らしきものを手にする半人半獣像の下で、鼻笛を演奏する。そのかすかな音は洞窟内で豊かに共鳴・増幅し、残響が闇の彼方へと消える――著者はそのとき、洞窟それ自体が「楽器」であり、「音楽」であることを知る。
 洞窟はおそらく、美術の始原の場所であるとともに、音楽の源泉でもあったのだ。音響考古学の成果によれば、洞窟空間の響きと壁面の絵画や記号との間には、意図的な関連まで存在するらしい。また、洞窟内の岩襞(いわひだ)をクロマニョン人たちがリトフォン(石琴)として打ち鳴らしていた跡も見つかっているという。
 認知考古学に基づく音楽起源論などの話題も押さえられているが、著者の面目躍如たるところは、洞窟の石筍(せきじゅん)を使って、実際に演奏を行っている点だろう。真っ暗闇の中、それぞれの石が秘めている「音の核」を感じ取り、腕は自然に動き出す。鈍い低音の響きとともに地面は揺れ、長い残響や他の石筍との共鳴によって、洞窟全体が振動する。それは広い海や羊水に浮かんでいるような、至福の瞬間だったという。
 動かぬ「楽器」である洞窟のみならず、トナカイの骨による旧石器時代の笛など、「動産芸術」としての楽器をめぐる記述も豊富である。巻末で、故郷の石・サヌカイト(讃岐岩)の原石に日本における旧石器時代の楽器を見ようとする著者の視線には、原風景へと向けた二重の郷愁が宿っている。太古の音楽への強い憧(あこが)れを誘う、刺激的な探究の書だ。
 
青土社 2200円

(2008年10月6日)   読売新聞 書評欄

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『壁画洞窟の音』 土取利行著 

■生命の産声を聴いてみたい       (評者) 藤原智美 作家

 太古の時代にさかのぼり、そのとき人類がどんな暮らしをしていたかを想像する。目に浮かぶのは毛皮に身を包み、髭(ひげ)もじゃもじゃの「原始人」。手にしているのは石の斧(おの)や矢だろうか。
 しかし、石器ではなく楽器を手にする彼らを思い浮かべる人は、少ないに違いない。
 この本で私ははじめて、音響考古学という言葉を知った。たとえばヨーロッパにはアルタミラ洞窟(どうくつ)の発見(1879年)以来、350ほどの洞窟壁画が発見されている。それらの中には、壁画の周辺が楽器演奏の場となっていたのではないか、と推測されるものも多いという。
 著者は前衛ジャズの音楽家であり民族音楽研究者である。彼はフランス南部にある全長800メートルにおよぶ、レ・トロア・フレール洞窟に入る。目的は「小さな魔法使い」とよばれる、弓の楽器を奏でる半人半獣の壁画を見るためだ。クロマニョン人、つまり私たちの直接の祖先が数万年前に描いた絵である。そのころからすでに楽器、音楽は人類のものだったのである。
 その絵に到達する途中、彼は持参した鼻笛をとりだし試しに吹いてみる。複雑に入り組んだ洞窟で音はどのように響くか? 案内者たちも灯(あか)りを消し、漆黒の闇のなかで、そのデリケートな音色に耳を傾ける。
 「その音は人の声のように増幅されては返ってくる。洞窟が新たな生命の産声を発している」
 笛の音色がやんでも、その不思議な余韻にしばらくだれも動こうとしなかったという。この描写を読んで、その音色をぜひ聴いてみたい、と思わない人はいないのではないか。
 数ある洞窟のなかには、石襞(ひだ)や脊柱(せきちゅう)に不自然な窪(くぼ)みが発見されることもある。長い間、打楽器として使っていた証拠である。リトフォン(石琴)は、すでに数万年前から生活文化の中に根ざしていた。
 「洞窟そのものが音楽であり、楽器である」
 もしかすると、ヨーロッパにある古い教会の空間内部における反響音のすばらしさは、クロマニョン人の音楽文化を伝承しているのかもしれない、などと私は想像した。
 一部には学究的な記述もある。初心者の私は著者には失礼だが読み飛ばした。それでもなお、感動が残る1冊だった。

 =2008/09/21付 西日本新聞朝刊=

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『壁画洞窟の音』
人類が生きた痕跡 現場で探る    【宇佐美圭司】(洋画家)

 精神分析の創始者フロイトが晩年に唱えた「死の欲動」という学説がある。過酷であった第一次世界大戦を受け、人間について考え直したフロイトは、人間を含む有機物はもともと無機物であったから生命なき無機物へ還って安定しようとする欲動がそなわっている、という驚くべき無意識を主張した。
 無機物まで還らなくても人間の還る場所はほかにもある。現生人類がアフリカを出発して世界にひろまっていったこの十万年余り、その大半は狩猟採集の石器時代であった。ラスコーやアルタミラなどの洞窟壁画がわれわれのあこがれをさそう。映画にもなったマイケル・オンダーチェの小説「イギリス人の患者」では、サハラ砂漠の洞窟にあった泳ぐ人のイメージがモチーフになっていた。
 本書の著者は、洞窟が単に空間として存在だけではなかったと主張する。洞窟は人間の生活に組み込まれた場であり、祈りや呪術、祝祭などが一体化したものであったろう。人間の生きたしぐさや音は、はるかな闇のなかに消え去り、洞窟に描かれた絵だけが残され、われわれは残されたものからそこで何がおきたのかを想像するしかない。
 著者は想像をめぐらすだけでなく現場に立って、打つ人、吹く人、こする人になった。本書はその報告である。
 描くことも踊ることもリズムをとることも一つの雲につつまれようにからみあって沸きあがる。その生成する時間を再現するのは不可能だけれど、隔てられ、ひきさかれて、何か遠くに別々にあるようになった絵画や音楽の本来のあり方に光を当てようとする試み。
 著者は現代の音楽家である。今どのように音楽がなりたつかを考えることが彼の洞窟への帰還を促している。
 西日本において旧石器時代から石器に活用されたサヌカイトと呼ばれる”古代の石”の演奏でも知られる土取利行。その名前が徳島の土取遺跡から発しているという「運命」に支えられながら何千年もの人間の記憶に錘鉛をおろすような試みの今後にも期待したい。
共同通信配信(信濃毎日新聞)2008年8月31日(日曜日)

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『壁画洞窟の音』書評
音楽発生の瞬間求めて          青澤隆明(音楽評論家)

 土取利行といえば、一九九一年のピーター・ブルック国際劇団来日公演「テンペスト」の音楽が、いまだに忘れられない。砂を敷き詰めた簡素な舞台と相乗して、音楽的想像力の始源へと誘われるような体験だった。洋の東西を超えた音楽の発生を凝視するまなざしを感じたと思った。
 七〇年代に前衛ジャズのドラマーとして躍進した土取は、八〇年前半に弥生時代の銅鐸(どうたく)、半ばに讃岐の古代石「サヌカイト」、九〇年代からは縄文鼓の演奏へと向かった。
 彼はサヌカイトが旧石器時代後期の楽器としての可能性を秘めたものだと直感するが、確証は得られない。「日本文化の深層に蠢(うごめく)く音楽の貌(かたち)を探究してきた」彼が、旧石器時代の音楽に情熱を抱くのは必然だろう。
 だが、酸性土壌という地理的な条件により、日本での遺跡発見は難しい。パリの演奏会で会った聴衆の示唆もあり、フランスの洞窟(どうくつ)にその糸口を見いだしたのだった。
 「壁画洞窟の音」としてまとめられた本書は、旧石器時代の音楽概論である。南仏レ・トロア・フレールやクーニャックの洞窟で、鼻笛、骨笛、鍾乳石や石旬(せきじゅん)の演奏を体験した著者は、音楽家の直観を基に、先史学、民族音楽学、音響考古学などの研究成果もかんがみつつ、旧石器時代の音楽像を探し求める。
 壁画が残されただけでなく、シャーマニズムの聖域だったはずの洞窟は豊饒(ほうじょう)な音響空間でもあった。しかし、「無形の音は残存を拒み、痕跡を絶ち、刹那(せつな)に徹す」。壁画に描かれたイメージ、出土楽器の推察や諸学の知見から、著者は音楽の原像へと追っていく。
 音楽発生の瞬間を夢みる旅。それは人類の創造力の源泉を探る試みでもある。音楽は見えないだけに豊饒な想像力をかき立てる。その原初の地点に立ち、土取は音楽の在り方を根源から問い直していく。読み進むにうち、わたしの脳裏にも神秘の音が響く気がした。
河北新聞     2008年8月24日

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日経新聞 読書欄(あとがきのあと)

「壁画洞窟の音」、土取利行氏―体感してたどる音楽の根源

 「音楽はどのように生まれたのか」を追究し、時空を超える旅を続ける。復元した銅鐸(どうたく)を打ち鳴らし、八ケ岳山すその縄文遺跡で開口部にシカ革を張った復元土器を連打した。七年前にはフランス南部の壁画洞窟(どうくつ)で笛を演奏する体験に恵まれた。自ら演奏して得た知識と、認知考古学や音響考古学など最新の学術研究の成果を織り交ぜ音楽の根源をたどったのが本書だ。
 「明かりを消すと、洞窟全体が共鳴しているのが分かった。あまりのすごさに恐怖を覚えた」。演奏したのは、近くで聴かないと聞こえないくらいの小さな音しか出ない笛だったが、洞窟の中では想像できないほどの大音響に変わった。本と同時発表したCDによって“追体験”もできる。
 先史人はなぜ、光の届かない洞窟の壁に牛などの動物や半獣半人の絵を描いたのか。「音響考古学の最近の研究成果によると、音響効果が強く表れる場所に描かれることが多いと分かってきた」
 壁画洞窟は儀礼を行う場であり、自然から巨大なエネルギーを授かることができる空間だったとする仮説もある。獲物がとれるようにとの思いを込めて、エネルギーが最大になる場所に動物を描いたのだろうか。
 人間と自然の橋渡しをしたのはシャーマン(宗教的職能者)だった。「言葉が生まれる前、音は重要なコミュニケーションの手段だったはず。声など人間の体が発する音の限界を超えようとして(特別な存在である)シャーマンが考え出したのが楽器だったのではないか」と推測する。
 とはいえ、動物の骨など有機物が残りやすい欧州と違って酸性土壌の日本では石器以外の遺物が残りにくく、少し違うアプローチが必要になる。そこが最大の課題だが、おぼろげにも浮かび上がってきた音楽の「原像」を確かめるまで、旅は終わりそうにない。(青土社・二、二〇〇円)
(つちとり・としゆき) 1950年香川県生まれ。音楽家。ジャズで音楽活動を始め、70年代後半以降ピーター・ブルック国際劇団で音楽担当。著書に『縄文の音』など。

[9月7日/日本経済新聞 朝刊]