上記写真は左より添田唖蝉坊、添田知道、右上は桃山晴衣と添田知道、右下は演歌を唄う土取利行

 

土取利行が自ら三味線を手に明治大正演歌を歌い始めたのは、伴侶、故・桃山晴衣が添田知道氏から長期にわたって<演歌>を習っていたことによる。 知道氏より、その節まわしや歌詞等を細部にわたって教えてもらっていた桃山が記録を残したまま逝去したことから、その意志を受け継いだ土取が彼女の三味線を手に「邦楽番外地」と題した「添田唖蝉坊・知道演歌」再生の旅を開始。三味線を主にエスラジやダルシマなど、アジアの楽器を用いた唄が明治大正演歌に新風を巻き起こした。

土取利行・邦楽番外地シリーズ:添田啞蟬坊・知道を演歌するvol.1,vol2と明治の壮士演歌と革命歌は以下のところで購入できます。

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Jazz Tokyo #5by5   2016年1月31日

『土取利行/添田唖蝉坊・知道を演歌する』 堀内宏公

「演歌」とは、明治半ばから大正期に興隆した、社会・時世を主題としたメッセージ・ソングのことである。明治初期の自由民権運動の壮士たちが演説にふしをつけて(とはいえ、ほとんどが、がなり立てるように)街頭で歌っていた「書生節」や「壮士節」などを基にしており、だから演歌とは、「演説する歌」の短縮型。社会の矛盾が生み出す悲劇や権力への批判を諷刺と諧謔とともに描いた歌詞が特徴で、歌われるふしは西洋音楽の音階とはいえ、それは明治政府が急速に導入を図ったクラシック音楽の体系というよりも、むしろ江戸時代以来ずっと庶民が親しんでいた三味線調のふしの趣をより色濃くとどめている。この「演歌」の中核を担ったのが添田唖蝉坊(そえだ・あぜんぼう 1872~1944)とその息子の添田知道(そえだ・ともみち 1902~1980)[別名・添田さつき。知道を「ちどう」と読むこともある]の親子であった。
 本CDで唄と楽器をひとりで担当している土取利行は、これまでにミルフォード・グレイブス、デレク・ベイリー、スティーヴ・レイシーらと即興演奏を繰り広げてきたパーカッション奏者であり、世界最高峰の演劇集団ピーター・ブルック国際劇団の音楽監督を30年間務める中で世界各地の民族音楽を現地で暮らしながらまなび、また銅鐸、サヌカイト、縄文鼓、壁画洞窟といった古代音楽の世界を追求してきた。それがなぜ今、三味線やアジアのさまざまな楽器を手に演歌を歌い始めたのか。
 その経緯は、土取利行の伴侶・桃山晴衣(1939~2008)が、日本人にとって魂の故郷となる「うたの源流」を探し求めていた過程で「演歌」に出会い、添田知道に師事していわば直伝の演歌を身につけていたことにある。桃山晴衣が遺した数多くの演歌関連の文献とテープを手がかりとして、土取は「演歌」と向き合い、それが現代の日本を逆照射する力をいささかも失っていないどころか、その批評・批判の矢がますます深く鋭いものとなっていることを確信したのである。
 唖蝉坊と知道を中心として興隆を極めた「演歌」は、しかし短命だった。ラジオ放送が開始され多くの人に同じ歌が届くようになると、それまで辻々や街角で直接個々に人々と向き合っていた演歌師の存在価値が薄れていった。そして明治43年に日本蓄音機商会(現コロムビア)、昭和2年にビクターと相次ぐレコード会社の創業を機に、歌は「はやる」ものから「はやらせる」ものへと変わった。次第に演歌は政治的な問題を扱うことをやめ、男女の恋や人情を取り上げて大衆化して「艶歌」と称され、やがて現在にまで続く演歌という大衆歌謡曲のジャンルとして確立する。
 音楽の産業化並びに西洋音楽の方法と価値観による画一化は、日本のうたの実質と中味を変えていった。暮らしや生活に根づいた歌詞や歌い方は徐々に影をひそめ、消費物として経済のサイクルに乗ることのできないものは、何であれ、振り返ることもなくどんどん捨て去られていった。こうして日本独自の伝統文化は次々と失われていき、俚謠(民謡)もわらべ唄も少しずつ姿を消していったが、急速に消え去った「演歌」を含め、こうした日本のうたには(そこには日本の先住民族であるアイヌのうたも含まれ、桃山晴衣は実際にアイヌやウィルタの古老たちを訪ねていた)、政府や音楽学校が上から規範として押しつけた西洋音楽文化とは違った、近代の日本人が自らの手で作り出した生活に根ざしたうたの姿があった。それは、ありえたかもしれない(選択肢としてあった)別の「日本」の姿を映し出しているだけでなく、現在の日本人に対して、今後ありうべき「日本」への道を指し示しているのではないか。
 かつて高田渡などフォーク・シンガーが、近代日本の抵抗歌の源泉という面に注目して唖蝉坊の演歌を取り上げることもあったが、その歌い方はアメリカのフォーク・シンガーのやりかたを模倣して、そこに日本語をのせていくというものだった。また、小沢昭一も唖蝉坊の演歌を偏愛し自らもうたう機会が多かったが、そのやりかたはやはり俳優らしく、演じつつ語りかけるというスタイルで、しかもそのふしはきちんとした和声の伴奏で縁取られ、唱歌や行進曲風の趣をもつ。本CDで土取利行が歌っているふしは、桃山晴衣が添田知道から直接指導されたもので、遺されたテープ音源をもとにしている。たとえば小沢昭一の十八番だった「金々節」は、これも添田知道から直接習ったものだというが、聴き比べてみるとまったく違う(下記に両者のYoutube動画のリンクを表示したので、ぜひ比較してほしい)。どのみち定まった唯一のふしというものはないのかもしれないが、そうしたことも含めて、本CDの存在は貴重だ。
 インターネットを駆使した連帯や参加は情報社会ならではの恩恵ではある。だがそれに頼りすぎると、実体を伴わないうわべだけの声や地に足がついていない声の大きな意見が正論を名乗りだす。ひとりひとりが自力で考える力や危機を察知する能力が弱体化してはいないか。窓を開けて空気のにおいを感じ空を見上げることもせず、画面が映し出す天気予報を見てすますような生活が、自然と関わり合うなかで培ってきた人間本来の感覚や能力を奪っていくのと、きっとそれは同じことだろう。当然着るものも食べるものも同じことがいえる。そして大切なのは、他人が主張する考えや感じ方と同意し合うのではなく、自分の目でものを見て、自分の実感からはじめること。認識と批判。前にすすむための方法を探し出し、実践すること(「検索」して「納得」するのではなく)。抵抗は、単独の行為からはじまる。このCDを聴きながら思いめぐらしたのはそのようなことだった。
 「ああわからない http://www.youtube.com/watch?v=NrIWL19s0gA 」を聴くと、唖蝉坊が歌っていることが今でも少しも古びていないことが分かる。
 もうそろそろ資本主義はやめたほうがよいのではないか。だが共産主義も嫌だ。自然の資源を「便利」の名のもとに取り崩しているだけで自然への還元を行わない文明はいずれ滅びるだろう。誰だってこんなことをいつまでも続けていてよいとは思っていないだろう。既得権益をもつ一部の金持ち連中を除いては。超高齢化社会で人口が減ったら経済活動は弱体化する? ならば、定年後は皆で野菜をつくればよいではないか。土の上で働くのは健康にもよいし病院の世話になる人も減る。カネがまわらなくても命がまわる社会のほうがずっとよい。(堀内宏公)

販売元「メタカンパニー」の本作品紹介ページ(参考動画あり)
http://metacompany.jp/shop/index.php?main_page=product_info&cPath=9_912&products_id=786
「邦楽番外地・明治大正演歌プロジェクトへ向けて」@土取利行ブログ「音楽略記」
http://d.hatena.ne.jp/tsuchino-oto/20120617
「歌は自由をめざす!」@じゃぽ音っとブログ(日本伝統文化振興財団)
http://d.hatena.ne.jp/japojp/20110427/1303879109

Youtube動画 「金金節/小沢昭一」
http://www.youtube.com/watch?v=axvelhY2P98
Youtube動画 「添田唖蝉坊・金々節 / 土取利行(唄・演奏) .」
http://www.youtube.com/watch?v=gtH6vexA68I